見えざる手?
アダム・スミスの国富論に「見えざる手」という言葉が有ります。聞いた事ある方も多いのではないでしょうか?見識ある自己利益とも言われますが、市場に任せれば、各人が自己利益の最大化を計り見えざる手によって社会の利益も推進される、みたいな話ですね。「政府はあまり口出すな」という事です。まぁ可笑しな話ですが。コレが正しければ独占や環境汚染、発癌物質など消費者や第三者が知らぬ間に不利益を被る可能性は大です。こういった事には政府の介入が必要です。また市場に任せれば所得の偏りが激しくなります。弱肉強食に近いわけですから。
もっと判り易く言えば「裕福なAさんと貧しいBさんがいます。Aさんは腐る程食料を持っていますがBさんは数日食事にありつけずにいます。そこへCさんがAさんの好きなパンを売りに来ました。Bさんは有り金を叩いて買おうとしますがAさんは「もっと高くても買うから私に売れ」と言います。市場に任せればCさんは高く買ってくれるAさんに売ります。コレって社会として利益の最大化できてます?出来てませんよね。貨幣は手段であって目的では有りません。このパンはBさんの命を繋ぐ価値が有りますが、Aさんに渡ればちょっとした満足感と引き換えに、Bさんは飢え死にするかもしれません。社会全体で見ればマイナスの方が大きいですよね。
格差社会の行き着く先
世界中で格差拡大は進んでいます。コレは放置して良い問題なのでしょうか?イメージしてみましょう。
一人が生きるのに必要な金額が10万円と仮定します。そして人口が10人の世界と仮定すると、最低100万円必要です。そして世界には500万円あるとしましょう。この時、一番貧しい人が10万円以上持っているなら最低限社会は成立しています。ところがこの500万円の9割、つまり450万円を1人が持ち残りの50万円を9人で分けるとどうなりますか?5.5万円/1人となり9人は生活出来ません。不足分4.5万円をその富裕層から借り利息を付けて返済します。更に格差は拡大します。(自民党モデル)
最終的には大半の人が困窮し命を落とすだけです。
ここでこの状況を回避する方法は2つ有ります。
1つは450万円の人から徴税し、他の9人に再分配し10万円/1人を超えるようにする。(立憲モデル)
もう一つは不足している所に新たなお金を補助し、500万円のパイ自体を増やす方法です。つまり社会全体で豊かになろうという事です。(れいわモデル)
擦り込まれた貨幣観では立憲モデルが受け入れ易いかもしれませんが、現実にはパイが増えない限り税収を増やすには重課税しかなくなります。つまり「全員で貧しくなろう」という思想です。日本では特に「清貧」という言葉(貧しくとも正しくあれ)を誤解し(貧しい方が正しい)と無意識に感じる方も多い様です。ここを利用しているのが維新モデルで「皆さんが困窮しているので議員報酬を減らしました」とか「公務員を減らしました」とかやってるわけです。冷静に考えて、コレで皆さんの所得が増えますか?誰も救われていないのですよ。
政治は「不足している所に手を差し伸べる事」が重要で、欲望を最大化する事が目的では有りません。また変動為替相場制/自国通貨建国債/通貨発行権/国債の大半が国内保有/長期デフレ等々財政支出の余力が有り余っている日本において、パイを増やす事に消極的では誰も救えません。
「格差拡大は人類にとって核爆弾以上の殺戮兵器である」