安楽死を容認しているのは?
「積極的安楽死」は患者本人の自発的意志で自死もしくは幇助による死を選ぶものです。幇助には(死期が近い、苦痛がある、治療法がない、患者本人の意志)が満たされてなければ、殺人罪の対象となり得ます。
「消極的安楽死」は殆どの国で広く受け入れられています。まぁ当然ですけど。消極的安楽死はQOLを考えた場合、改善の見込みの無い延命治療や苦痛を伴う治療を拒否し、余命を遣り残した事の無い様に有効に使う選択とも言え自然に見えます。
実際、私が以前いた職場で40代〜60代で癌になり亡くなった方が3人いましたが、全員が最終的には消極的安楽死を選択しました。当然ですが消極的安楽死は刑法にも抵触しない、完全な本人の自由意志です。つまり自身の死については、本人が認知できる状況であれば本人のみが決められると言う事です。生存権を考えれば当然ですよね。
今回、何故逮捕に至ったのか
今回のケースは薬物投与による自死を2名の医師が幇助したものです。つまり積極的安楽死ですね。通常、積極的安楽死には実施までに長い時間を掛けます。一時的な感情で希望するケースもある為です。その上で条件を満たし文書等で本人の意思を残すというプロセスを踏む様です。そう考えると今回のケースは、SNSで依頼を受けた医師が報酬を受け取った上で実施したと見られており、過去の判例に照らしても逮捕は当然と言えるものかと思われます。
個人の死を誰が決める?
今回の事件で「安楽死、尊厳死について議論するべきだ」という事を騒ぐ人達がいます。では実際、現状ではどの様な建て付けになっているのでしょう?
「生きる権利」は大日本帝国憲法には記載の無かったものですが、現行憲法では25条に生存権として明記されています。また国の最も重要な責務が国民の生命と財産を守る事だというのは殆どの方が御存知かと思います。そして他者から生きる権利を奪われない様に、法律によって殺人は禁止されているわけです。唯一の例外は犯罪者に対し死刑が求刑された場合のみです。
「死ぬ権利」については、患者本人が治療を拒否する事は認められており、その選択に協力した医療関係者が罪に問われる事はありません。つまり現実には、安楽死の選択はすでに可能です。治療を受けるのか、受けないのか、本人が選択できます。しかし今回の様に報酬を払い自分自身の殺人を依頼する事を認めてしまうとどうでしょう。相模原事件の様なケースであっても、被害者を脅し遺書を書かせて殺した場合は状況的には殺人罪に問われない可能性が出てきます。
まとめると日本国民は「生きる権利」を生存権で保障されており、「死ぬ権利」も消極的安楽死という形で認められている。
国は自国民に対し、生命を守る責務を負う。つまり生存の為に必要な医療機関や医療設備、医療関係者が不足する状況を作らない様に、最善の努力をしなければ政府が憲法を遵守していないとも言える。
議論を望んでいる人々は、積極的安楽死を法制化したいと思っているのでしょうがこの見方おかしくないでしょうか?実際、死亡した患者本人は裁かれる対象ではありません。裁かれる対象は殺人幇助をした側です。つまり「死にたい人間を殺しても裁かれない権利」を要求しているとも言えるのです。もっと言うならこれは「安楽死の法制化」ではなく「殺人幇助の無罪化」と言うのがより現実に近いのです。
死にたくなる社会
今回死亡したALS患者の方は何故「死にたい」と思ったのでしょう。病気に絶望し死にたくなると言うのは、ある意味自然な感情ではあります。しかしそれ以上に患者を追い詰めるのは、社会に居場所が無くなる事ではないでしょうか。「周りに負担を掛けるだけだ」「誰からも必要とされていない」「国の負担を受ける事が後ろめたい」など、そんな事を感じさせる社会の在り方こそが変える必要があります。
誰もが高齢者になり、誰もが障害者や重病患者になる可能性がある。もしそうなった時に「”迷惑だから死にたい”とか”希望も無いから死にたい”と思わせる社会」と、「どんな状況になっても社会の一員として受け入れてくれる社会」では積極的安楽死を希望する人の数は雲泥の差があると思います。
「緊縮財政は人を殺す」と言われますが、「財源は税」と言う正しく無い知識が相模原事件のキッカケであり、先日の大西氏の件も医療のリソース不足がキッカケでした。今回の安楽死問題もそうですが、まず優先すべきは「財源問題など無い」「財源は税では無く国債発行である」と言う事実を、国民が理解する事です。それだけで「税金を払っていないくせに」とか「税金で飯食って」みたいな発言がどれだけ的外れな事かわかるし、「同じ国民なんだから」という連帯感、ナショナリズムが生まれて来ます。これを醸成させる事が、「死にたくなる社会」を「生きていたい社会」へ変える唯一の道では無いかと私は思っています。