「自粛警察」時々目にしますよね。あれをしている人の動機は何でしょう?本人は「正義感」と答えるのでしょうが、明らかに曲がっていますよね。制限速度50kmの道路を60kmで走っている車がいたので自分の車をぶつけて止めた、みたいな話です。抗議したければルール内ですれば正義でしょうが、ルールを破った自身の悪をどう埋め合わせるのでしょう。
こうした「正義」の解釈自体を変えようと試みたり、その「曲がった正義」と「不寛容」をセットにして恰も「不寛容こそが正義」であるかの様な印象を植え付ける試みが、政治の世界からメディアを通じて行われてきました。
「鬼滅の刃」では「正義」「寛容」「共同体」という社会の礎となる物を再確認させます。
それだけ社会が「不正義に寛容」で「共同体より孤立」に振れすぎてしまったという事です。もう一度、社会の礎を取り戻したいと一般の国民は無意識下において欲しているのだと思います。政治が「国民より献金元」「平等より格差」「保守より保身」「正義感よりお得感」・・・こんな調子では共同体はただのバトルロイヤルです。
「弱き人を助けることは強く生まれた者の責務です。責任を持って果たさなければならない使命なのです。決して忘れる事なき様に。
生まれ持って得た強さは、あくまでも弱き人を助けるためのもの。その力は、世のため、人のために使わなければいけない。
天から賜りし力で人を傷つけること、私腹を肥やすことは許されません」
これは鬼滅の刃の人気キャラクター炎柱の煉獄に対し母親が説いていたセリフです。つまり「共同体において余力のある者が苦しむ者から奪う様な真似をしてはいけない。赤ん坊の時には誰もが共同体の余力を持って生かされたのだから、自身が余力を得たのであれば余力を必要とする者の為にそれを活かせ」という事です。
今、このコロナ禍においても余力のある政府は国民を救わず、従業員を簡単に切る企業、内部留保を増やす大企業という酷い現実の中にいれば、アニメの中に希望を見出し溜飲を下げる人が多数いても何の不思議もありません。
今年は衆議院選があります。ここで現実に鬼を倒すのか、それとも鬼の手下になるのか、日本人の「正義」が問われます。皆さん、選挙に行きましょう。