現代の経済システムについても言及しています。
「お金」という物はフィクションそのものであると。反緊縮を掲げる現在のマイノリティーの方達は理解できるでしょうが、古い経済学を盲信する主流派経済学者には理解出来ないかも知れませんね。大切なのは「人」であり「物」である。それを円滑に繋ぐ為のフィクションが「お金」であり、それはあくまでも皆が「この紙切れはコレと交換できる」と信じ込む事で成立しています。その紙切れ自体に価値がある訳ではないのです。
「その存在自体が地球上から無くなっても困らない物」はフィクションだという事です。作中にはプジョーの話が出てきます。昔、会社は個人の責任において運営されていました。しかし株式会社の誕生で、人格を持たないフィクションの「会社」という存在に責任を移したのです。車の不具合で死者が出た場合、痛みも悲しみも感じない「会社」という仮想の存在が責任を取る。その原因を作った人が全責任を負う訳ではないのです。そしていつしか人格を持つ「従業員」よりも、人格を持たない仮想の存在である「会社」の方が強い立場になる。あるいは「現実に労働する従業員」よりも「フィクションであるお金をフィクションである会社に投資した株主」の方が立場が強くなる。おかしな話です。
私たちが生きる世界が虚構である為に、現実の価値が歪められてしまっているのです。
今の日本では、正にコレを体感出来ている人が増えたのではないでしょうか。コロナという人類にとっての災難が降り掛かった事で、本当に価値あるものや現代のシステム的欠陥が浮き彫りになっています。この事で1人でも多くの人の意識が変われば、人類はやり直せるのかも知れません。
しかし先日、ハラリ氏はある番組で「諦めてはいけないが、歴史を見ると人類の愚かさも甘く見てはいけない」と発言されていました。アフターコロナの世界がどうなるのか・・・フィクションの力を悪用する人がのさばる世界が変わらず続くのか、それとも少しだけホモ・サピエンスは知性を取り戻すのか、それこそ神(フィクション)のみぞ知るですね。