「日本人は勤勉だ」
「日本人は親切だ」
よく耳にする言葉です。私も日本人は本質的には勤勉で親切だと思います。しかし一方で閉鎖的で利己的な面も目立ち、残酷で愚かな選択を集団でしてしまう傾向が強いとも感じます。
自粛警察と陽性者差別
最近は少し報道も減りましたが「自粛警察」というものがありました。弱り目に祟り目と言いますが、客足が減り困窮する飲食店が十分な補償がない為に止む無く開店すると、己の正義を振りかざす野蛮人に攻撃されるという逃げ場のない状況に追い込まれるのです。
陽性者やその家族、医療従事者への批判・差別も常軌を逸しています。その為に離職や引っ越し、或いは自殺者まで出ている現状に疑問を持たない人々が多くいる事に私は恐怖を覚えます。県外ナンバーへの嫌がらせなども問題になっていましたよね・・・。
こういう事は今に始まった事ではなく、昔から脈々と日本人の根底に流れているものだと思うのです。
何故同胞で傷つけ合うのか
日本には昔「五人組」という制度がありました。秀吉の時代に始まったと言われていますが、5戸の家族が連帯責任を負い、相互監視、相互扶助をするものです。今の北朝鮮なども相互監視や密告がデフォルトですが、日本でも戦前や戦中にも同じ様な環境にありました。1947年に廃止されましたが隣組ですね。
作家の故・半藤一利氏は父親が「日本は戦争に負けるだろう」と言っただけで密告によって逮捕されたと以前話されていました。彼は安倍政権下での特定秘密保護法や安全保障法制、共謀罪など明らかに憲法を形骸化させ戦争できる国へと変容させる姿勢に警鐘を鳴らしていました。安倍氏は「法案が通らないとオリンピックは開けない」と脅しまで掛けていましたから、政治家を名乗る資格すらないと私は思っています。
民衆の中には政府に対し無条件に協力的な人や、金品や保身によって協力的になる人がいる。それによって民衆は分断され疑心暗鬼になり自ら民衆の自由や権利を差し出してしまう。戦前ものほほんと治安維持法を受け入れ(※自らの自由と権利を差し出し)、「自分達一般人は対象じゃないよ」とたかを括っていた国民は、その後2度の法改正で対象を拡げられ締め付けられ後戻り出来なくなりました。
時代が変わっても日本人の本質は変わっていないのです。歴史に向き合うことも、学ぶ事も、反省する事も避けてきた結果・・・いつか来た道をまた選択しつつあるのです。
デジャヴ
特措法により入院を拒否すれば禁錮刑というのが当初、政府自民党の要求でした。野党の抵抗で結果的に罰金刑になりましたが、自民党が望む世界が垣間見えた瞬間でした。今後、折を見て法改正を言い出すのは目に見えています。今回、野党側も感染拡大阻止に前のめりになるあまり、リベラルと言われる人々も私権制限に寛容な姿勢を見せた点は不安を残します。
しかし一番恐ろしいのは、世論調査の結果が罰則規定に対し肯定的・積極的に支持する声が大きかった事です。「他者から強要される自粛」はもはや「自粛」ではないですよね?流行り言葉で言うなら「生殺与奪の権を他人に握らせるな」です。私権制限・同調圧力を当たり前の様に受け入れる人は、戦前に日本人が犯したミスを繰り返している事に気付くべきでしょう。
疾風に勁草を知る
人は平時には本質が見えにくいが、非常時には明らかになります。
日本人は良くも悪くも「空気」に主権を握らせる傾向が強いです。同調圧力に屈して結果的に「長い物には巻かれろ」が罷り通ってしまう。そこには「正義」も「合理性」も無く、ただただ淀んだ空気があるだけです。
現在の自民党は日本会議の実働部隊であり改憲草案からもわかる様に、私権制限と国民の義務責任強化を党の目的としています。中国共産党がモデルケースとして思い浮かぶ方も多いのではないでしょうか。
彼等が衆院選で大敗すれば少し後退するかもしれませんが、もし国民がこの非常時に於いても自らの頭で考えずに、ただただ空気に流される存在であるのならばそれこそが「日本人の本質」なのだと思います。誇れるものでは無いですよね?私は絶対数では誇れる資質を持ち合わせた日本人の方が多いと信じています。しかし如何せん「間違った人間程、声が大きい」そして「大きい声が空気を作る」と言う日本社会に横たわり続ける課題を、未だに手付かずのまま放置している。男尊女卑や障害者差別、マイノリティー排斥など日常に溶け込んでしまっているから、政府やメディアが方向を示せばそれにそぐわない人は叩いて良いかの様に錯覚する人が続出するのです。
国の方向性を決めるのは国民です。私は母国が「同調圧力に屈する国・国民」ではなく「自ら正しい判断ができる国・国民」であって欲しい。
いつの時代も「国は国民による共同体である」と言う事を意識していれば、「一部の国民を苦しめる事は国を苦しめる事」と同義だと理解できるはずですし、空気に支配される事も減るのではないでしょうか。自分の権利を守る為に人の権利を抑圧するのは、結果として社会全体を抑圧する方向へ向かわせてしまうのです。