日本のビジネスパーソンに多い司馬遼太郎フリーク。明治維新や坂本龍馬を美化し「改革」「グローバル化」「スクラップ&ビルド」を是とする方達ですね。日本に於いては高度経済成長期の頃から頭の中が何も変わっていません。何故取り巻く環境や、世界の変化に対し自分自身の考えを「改革」しないのでしょう。
戦後レジームからの脱却
日本は元々共同体意識の強い民族性でした。義務や責任といった部分でも組、村、町などが基本単位で、誰かの不測の事態には共同体でカバーすると言う「有機的繋がり」が根付いていたのです。しかし明治維新以降、次第に「無機的繋がり=個人主義」へと舵を切ります。生産性や効率が重要視され、それは戦後更に加速します。その中で日本人は「会社」をコミュニティの舞台へと置き換えていったのです。社員は家族であり「終身雇用」や老後の補償、遺族年金など、会社が親で社員は子供であるかのようなスタイルができました。
この頃、日本は高度経済成長期であり輸出によって急成長していた時代です。20年前の中国をイメージするのが近いでしょうか。賃金は右肩上がり、老後の心配など無かったと言って良い時代です。そんな中で日本は開国を推し進めます。国内市場を解放し、自ら低価格競争に身を投じます。民営化の動きは未だに続いていますし、それを支持する国民も相変わらずいます。
この経済効率至上主義とも言える戦後的な価値観は、文壇や映画界から上がる多くの警鐘を無視し続けました。損得勘定に立脚した戦後的価値観は司馬遼太郎の根底に流れる源流であり、これを肯定する事が日本人の虚栄心を擽ぐるのでしょう。先程も触れましたが、日本人のDNAには「共同体の価値」というものがあるのだと感じます。だが個人の損得を優先する際にコレは後ろめたさを生みます。そこで落とし所として「痛みを伴う改革」などと言い出す連中が現れ、共感する人々が現れるのです。
改革とは何か?
改革とは「過去や現在を否定し一から作り直す事」で家で例えると「建て替え」です。一方改善は「過去や現在を肯定しつつバージョンアップする事」つまり「リフォーム」です。家に例えましたが、具現化されたものとして建物は良いサンプルだと思います。
所謂古民家の類は築100年とかあるわけですが、戦後の日本の住宅は25年もすればボロボロと言われます。歴史と伝統を捨て、経済効率のみを追い求めた結果がこのザマです。
「小泉改革」なんてものがありましたが、「中から自民党をぶっ壊す」という勇ましい言葉を自民党というぬるま湯の中で叫ぶ姿に共感したビジネスパーソンは多かったわけです。司馬遼太郎的歴史観の明治維新や坂本龍馬とも重なるのでしょう。今で言えば維新の会ですね。基本的にこの手の人達は「保身」が担保される状況が必須という共通点があります。
ですが「改革」と称して行われる事の殆どは「利権の移転」なんですよね。例えば大阪では公務員を削減し、派遣公務員が急増しています。公務員は国や地方から所得を得るわけですから「利権者」は労働者自身なわけですが、民営化によって「利権者」はパソナの様な派遣会社になるわけです。こんなモノを改革と呼ぶのもどうかと思いますが、コレを支持する人の心理も理解に苦しみます。コレで経費が減るのであれば労働者の賃金が下がり、派遣会社が中抜きしただけの話です。労働者は消費者でもあるので、社会全体で見れば「購買力の低下」「格差拡大」に寄与しただけです。言い換えれば「労働者の富の一部」が「派遣会社の経営者や株主の富」になったという事です。
池上彰を彷彿
司馬遼太郎がどの様な世界観であろうとそれは個人の自由ですが、それに感化され戦後的価値観を是とする日本人が大量に存在し、この国を没落させる原動力、拠り所となっている現実には辟易します。現在池上彰の発言を鵜呑みにする人が多くいる現状に似た有害性を私は感じます。誤解の無い様に言っておきますが司馬遼太郎を否定しているわけではありません。ただ今の時代にはそぐわないという話です。
今の様な斜陽の時代に対する解を持ち合わせていない人物のストーリーに倣い、成長期と同じ手を名前を変えつつやり続ける事に何の意味があるのでしょう。日本の長い歴史の中で(特に江戸時代などは)学ぶべき事は多く、改革の名の下に切り捨てられ忘れられた思考や社会のあり様を掘り起こす時期にあるのではないでしょうか?振り返って見れば気付くはずですが、政治的改革によって「得た物」よりも「失った物」の方が圧倒的に多く、更に格差や分断を助長する結果になっているのです。
耳障りの感触だけで「改革」を支持するのは、「日本国民の緩やかな自殺」を支持するのと同じ事です。耳障りより肌感覚の方が得てして正解に近いものです。