• 火. 3月 19th, 2024

少し前の話題になりますが『JRの車椅子乗車拒否問題』について・・・ご存知ない方はその発端となったこちらのブログから。車椅子ユーザーのコラムニスト伊是名夏子氏が旅行の際に、希望する駅での乗降でJR側と一悶着あった様で、このブログに対し賛否両論が入り乱れ伊是氏を批判する辛辣な意見もかなり多かった様です。

どちらかの問題なのか?

今回の件、件のブログにも記載があった様に「問題提起」と言う意味では一理有ります。話題になる事で考える機会を生みますからね。実際、国会ではれいわ新選組のお二人や立憲の議員さんが当事者として交通インフラなどにもリアルに問題提議されています。しかし今回の件に関しては「このやり方で良いのか?」と言う部分で疑問符が付きます。恐らく「障害者には関わりたくない」とか「障害者はわがままだ」と感じた健常者を多数生み出した可能性があると思います。人はカテゴリー分けしステレオタイプを作りたがります。つまり今回の件で「障害者」と一括りに見る人達は、全ての障害者を「関わりたくない人達」と捉える可能性が高いと思います。

では反対にJR側に問題は無いのか?今回の件に関しては「対応していない」「対応できていない」事に関しては「融通の効かない時代遅れの会社だ」とは思いますが、民営化されてしまった一企業である以上対応にも限度があるのでは?とも思います。勿論、「障害者差別解消法」の趣旨からすれば、全てにおいて障害者にも健常者と同等の権利が有り、障害の有無で不利益を被る差別をしてはならないわけです。しかし日本では結局絵に描いた餅で「努力義務」にしかなっていないと感じます。人々の意識の根底に「差別に加担している」という自覚が希薄な面もある様に思います。

そもそも私はJRについては「再国有化しろ」と思っていて、その暁には赤字路線の維持や無人駅のバリアフリー化をやるべきだと思っています。高齢者から免許を取り上げる動きがある中で、過疎地の高齢者などの脚としてもバリアフリー化は意味があるはずですがね。公共性公益性の高いものは国営公営で、零れ落ちる人が出ない様に最低限のサービス提供は維持すべきです。

車椅子から見える世界

私は商社マンをしていた28才の時に車椅子ユーザーになったのですが、車椅子を利用する様になって気付いたことが多くあります。例えば歩道には水が溜まらない様に傾斜があり車椅子ではそれが負担になる事や、日本の歩道の縁石が障害になる事、車椅子ではエレベーターしか移動手段がないのに他の手段がある人達で満員で乗れないなんて事もしばしば。障害者用の駐車場に明らかな健常者が駐めている光景などは日常。まだまだ有りますが、こうした事は私も健常者だった頃には余り意識していませんでした。

ですから車椅子に乗る様になった当時は行けない場所や、出来ない事が一気に湧き出てきてストレスでした。勿論、今でもストレスではあるのですが、今は事前の情報収集でハード面の問題をある程度クリアにして出掛けるので段違いです。交通インフラやお店も事前に連絡しておけば、お互いに戸惑わずに済みます。事前に問い合わせするとわかりますが「大丈夫ですよ」「段差が有りますがスタッフがお手伝いします」「2Fなので車椅子は無理ですね」など結局は対応する人次第なのです。法律で決まっていても最終的には個々人の意識の問題なのです。

欧州を旅する際、度々電車を予約するのですが「予約無しでは駅員は対応出来ない」が基本です。予約すると大体どこでもフレンドリーに気持ちの良い対応をしてくれます。今まで予約無しで乗った事は3回(かな?)有りますが、乗客がヘルプしてくれたり、駅員用の通路を勝手に通ったりして無理矢理クリアしました。しかしこれらは私の怠慢であって、やはりお互いの善意によって成り立つ以上は「事前連絡」はある意味礼儀だと思います。自己解決できるなら事前連絡はいらないでしょうが。

それと乗降できる駅は欧州でも限られています。国鉄でもトラムでも地下鉄でも同じです。

ついでなのでエレベーターの話もしておきますが、私の経験では今までエレベーターを譲ってくれなかった国って日本だけなんですよね、残念ですが。結局バリアフリーは一人一人の意識レベルの問題で、そこを高めるのかそれともそこの向上が難しいのならばハード面の底上げという話だと思います。日本はハード面に関しては比較的整っています。細部が雑ですが。

分断にメリットは無い

今回の問題は明らかに分断を煽る結果になっていると思います。これは誰にとってもメリットの無い話です。先程も少し触れましたが、ハード・ソフト両面でバリアフリー化を進めたいのなら、法律を盾に争うよりも他者への敬意を示す必要がある様に思います。実際、現状で不便を感じているのは私達障害者であって、健常者にとっては特段不便な問題では無いのです。だからこそ「理解」と「協力」を求める必要が有り、「自分の権利を声高に求め、相手の義務を殊更追求する」様なスタンスは普通に考えておかしい気がします。

以前、2Fのレストランに入れなかった事で騒いだ方や、事前連絡無く飛行機に乗ろうとした方のニュースも有りましたが、そもそも何かが間違っていないでしょうか?「健常者は事前連絡などしない。だから私もしない。」という発想はかなり歪んで見えます。目的は「レストランでの食事」や「飛行機への搭乗」ではないのでしょうか?私は普通にそこの壁が低くなれば良いとしか思いません。全てを同じにする事は不可能ですから、たった1本の電話なりメールなりでその目的が達成できるなら十分だと思います。「自分は一切変えない、社会が変われ」ではなく、お互いの理解と協力と歩み寄りによってのみ本当の意味でのバリアフリーは存在すると思います。

例えば自宅でパーティーをして、来客の中にいたイスラム教徒の人が「食べられる料理が無い、差別だ」と叫んだと想像してください。あなたはどう思いますか?事前に知っていればハラルフードも用意出来ましたよね。でも相手が更に「イスラム教徒が来る事は想定していないのか?ハラルを用意していないのは差別だ」と叫べばどうでしょう?周りの人達はそれぞれの受け止めをするでしょうが、共通するのは全員が不快だという事です。そして残念ながら「だからイスラム教徒は・・・」みたいな受け止めをする人が少なく無いであろう事は想像に難くないです。

マイノリティーが本当にすべき事は「権利を求める事」よりも前に「理解を求める事」だと思うのです。そこに権利が育つ土壌ができるのではないでしょうか・・・。

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