• 水. 9月 29th, 2021

政治・経済の話ばかりだと気が滅入るので、サイトリニューアルも兼ねてカテゴリーを拡げてみました。「教養」などと言うカテゴリーも加えてみたのですが、そもそも「教養」とは何でしょう?

個人の人格や学習に結びついた知識や行いのこと。 これに関連した学問や芸術、および精神修養などの教育、文化的諸活動を含める場合もある。
Wikipedia
引用

つまり「個人」が知識や経験を重ねる事で、自身の行動や思考が磨き上げられ「品格・人格・理解・想像・造詣」が高いレベルに昇華される事。

ですから例えば「学者は教養がある」というのは間違いで、「学者は(特定分野に関して)知識がある」の方が正確です。人が肩書きに騙され易いのは、ここの区別がついておらず「知識人=正しい選択が出来る」と勘違いする為かもしれません。

ルネサンスの知

かつて欧州に於いて「教養」は上流階級つまり貴族の社交術であり、会話やマナーを洗練させるツールでした。その為に文化への造詣も必然的に深まり、結果的に偉大な芸術が生まれ育てられ保護されたのです。

時代の流れと共に芸術と教育の敷居は低くなり、大衆も伝統文化やハイカルチャーに触れる機会が増え「教養」は階級の壁を超えました。つまり出自によって縛られていた自身を「解放」する事を「教養」は可能にしたのです。

「知識→人格形成・社会的価値」これが教養の根幹だったわけですが現在は財界の思考が入り込んだ為に「知識→ビジネス的価値」となってしまいました。現在の政治を見れば分かるように「内省」「理想」などとは程遠い所に価値を置いています。結果として「解放された僕ら」はいつしか「ビジネス的価値のないモノ=無価値」という、反知性的な縛りにより「教養の弱体化」に直面しているわけです。

勿論、ネットの普及に伴い個人が扱える情報量は飛躍的に増加しましたから、「知識→思考→理想→内省→行動→・・・」という独学的プロセスは格段に取り易くなりました。しかしかつて「上流階級」と呼ばれた人達は、現代では「上級国民」と揶揄され嘲笑の対象にさえ成り下がっています。それは彼等の多くが「マクロな社会的価値<ミクロな個人的利得」が行動原理となってしまい、ある意味で「教養からの逃避」を選択した為です。そして残念な事に”そんな彼等”が社会全体の舵取りを担っているのです。

差別を軽々と越える教養

蘊蓄を垂れ流す事に何か意味があるでしょうか?それは自己満足と知識の提供であって教養とは一線を画します。

世界には多くの差別が存在しますね。人種や宗教、性別や障害の有無、年齢や身分なんてものも・・・。そういったモノを乗り越えるのが教養だと私は思います。

樹木にとって最も大切なものは何かと問うたら、それは果実だと誰もが答えるだろう。 しかし実際には種なのだ。
ニーチェ
ドイツ/哲学者

広い知識を得て、経験を重ね、多様性を理解し、互いの文化や思想を知ろうと努力する事が教養を生み育てるのではないでしょうか。芸術や食文化、服飾、音楽、建築、ワイン、歴史など「教養」と聞いて想像する多くの物が、その背景の文化や生活そして人々に結びつきます。つい目が行きがちな”肌の色”や”性別”などよりも根源的な”人”という部分で思考出来る様になる事が「教養を身につける」という事の本質なのではないでしょうか。

次回からは具体的に絵画や音楽、ワインなど1つの作品や製品を背景を交えて紹介できればと考えています。

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