かつて欧州に於いて「教養」は上流階級つまり貴族の社交術であり、会話やマナーを洗練させるツールでした。その為に文化への造詣も必然的に深まり、結果的に偉大な芸術が生まれ育てられ保護されたのです。
時代の流れと共に芸術と教育の敷居は低くなり、大衆も伝統文化やハイカルチャーに触れる機会が増え「教養」は階級の壁を超えました。つまり出自によって縛られていた自身を「解放」する事を「教養」は可能にしたのです。
「知識→人格形成・社会的価値」これが教養の根幹だったわけですが現在は財界の思考が入り込んだ為に「知識→ビジネス的価値」となってしまいました。現在の政治を見れば分かるように「内省」「理想」などとは程遠い所に価値を置いています。結果として「解放された僕ら」はいつしか「ビジネス的価値のないモノ=無価値」という、反知性的な縛りにより「教養の弱体化」に直面しているわけです。
勿論、ネットの普及に伴い個人が扱える情報量は飛躍的に増加しましたから、「知識→思考→理想→内省→行動→・・・」という独学的プロセスは格段に取り易くなりました。しかしかつて「上流階級」と呼ばれた人達は、現代では「上級国民」と揶揄され嘲笑の対象にさえ成り下がっています。それは彼等の多くが「マクロな社会的価値<ミクロな個人的利得」が行動原理となってしまい、ある意味で「教養からの逃避」を選択した為です。そして残念な事に”そんな彼等”が社会全体の舵取りを担っているのです。