今、世界中で人種差別に対する抗議デモが起きています。発端はコチラ(Brut Japan twitterより)
【注意】冒頭、警官が男性の首を押さえつける映像が含まれています。視聴の際はご注意ください。「息が出来ない」。米ミネソタ州ミネアポリスで、警官に膝で首を絞められて死亡した黒人男性ジョージ・フロイド氏が残した最後の言葉は、警察による暴力に反対する抗議運動のスローガンになった。 pic.twitter.com/wyUuZglIEi
— Brut Japan (@brutjapan) May 28, 2020
黒人男性ジョージ・フロイド氏が白人警官によって殺害された事件。こうした事件は昔から後を絶ちません。
アメリカの歴史は人種差別の歴史
北米の先住民は元々地続きであったシベリアからアラスカへ渡った人々が、南下し暮らしていたと考えられています。紀元前から脈々と生命を繋いできたわけです。1600年代にヨーロッパから白人が本格的に定住の為に来るまでは。彼等は詐欺紛いの取引で略奪し、天然痘など持ち込んだ疾病によって200万人程度いた先住民を急減させたと言われています。共存の道を模索もした様ですが、度々争いが起き先住民が殺され領土を奪われていった様です。入植者達は生態系を破壊し、先住民を追い出しアメリカという国を形成していきます。そしてアフリカから奴隷を連れて来るのです。
現在でも移民の国アメリカは、黒人、ヒスパニック、アジア系移民が増加を続け過半数になるのは時間の問題です。白人からすればアメリカの歴史は「他人種からの略奪や搾取の歴史」ですから自分達が少数派になる事を恐れます。コレが「優生学」を生み出す事に繋がっているのでしょうか。「白人は他の人種より遺伝的に優れている」という嘘だけが拠り所なのです。こうした優生思想がナチスの洗脳・扇動に用いられた事は有名ですね。
一括りに白人至上主義と言っても、極右もあれば極左も有り、他人種グループと共闘する人々もいます。熱量の違いは有りますが「人種に優劣がある」という歪んだ根幹は同じです。WP、ホワイトプライドやホワイトパワーなど肌の色にしかプライドを持てない事が問題だと思うのです。
そしてココも目を通して置く事をオススメします。
メディアとSNS
各地で起こる抗議デモですが平和的なものが殆どだと言われています。しかし一部のWP警察官と一部の暴徒化したデモ参加者と便乗略奪者がニュースでは取り上げられます。より過激な絵面が視聴率を押し上げるからです。同様にSNSの中にも、今回の白人警官とあるコメディアンが似ている事からフェイクニュースだと喧伝している人達がいます。はっきり言って問題を見誤っています。仮にコレが捏造であったとして、それを主張してアメリカの人種差別が解決するのでしょうか?今回の事件は、アメリカの歴史に数多ある「人種差別」というページの一つなのです。そして世界規模でデモが発生しているのは「人種差別」を見過ごす事が「人としてのプライド」を汚すのだと多くの人が知っているからです。
日本では・・・
優生思想は欧米の話と感じるかもしれませんが、日本でもそういう思想の人達は増えています。残念ながら。
記憶に新しいところでは「相模原障害者施設殺傷事件」などは優生思想そのものです。この事件の犯人は「生産性の無い人間は生きる価値がない」などと主張し続けています。ネット上ではコレに賛同する人達が一定数いた事で、今の社会がどれだけ生き辛いか表面化した様に見えます。これは虐められない為には、自分が誰かを虐めれば良いという発想でしかないのですよ。権力や不正義に抗う勇気を持てない人が増えてしまったとも言えます。
「生産性の無い人間は・・・」という言葉は、その言葉を発した人間が自身の「幼少期」や「老年期」、言い換えれば自身の「過去」と「未来」を否定している事にもなります。今の自分だけを見て物事を判断するのはあまりに愚かです。
想像してみましょう。
例えば自分が事故に遭いかけた時、身代わりとなり救ってくれた人がいたとします。その人は大怪我をし障碍者となりました。この人は「生きる価値」が無いのでしょうか?
あるいは自分の親が年を取り車椅子になったら殺すのでしょうか?おかしいと思いませんか。人の命の選別をする権利など誰にも無いのですよ。
日本人の生活保護需給率の低さも「生産性思考」に根があるのかもしれません。勿論、役所が拒否しているのも有りますが、資格があり食うに困っていても周りの目を気にしたり「税金の世話になるのは・・・」と餓死や犯罪を選ぶ人までいます。間違った貨幣観の問題も勿論有りますが、経済的困窮者への差別もあるのではないでしょうか。少年達がホームレスを殺害したり、在日の方達への誹謗中傷なども聞こえてきますよね。こうした差別に対して「声を上げる」という事を辞めれば、差別はより過激な方向へ向かいます。
誰もが「明日、自分が差別される側に立つかもしれない」と想像できていれば、もう少しだけ生き易い社会になるのではないでしょうか。